みやこのしこう

通称みやこ目みやこ科みやこ属みやこの、あんまりいないらしいみやこという生き物の生態のひとりごと綴じ。でもメジャー寄りではないけどオンリーロンリーってほど稀有ないきものではない凡俗。珍獣程度だろうか、ありふれてる虫程度だろうか、自分ではよくわからない。

そういえば最近めっきりつぶやかなくなりまして

紙でめしにっき始めたからかな、過去の憑き物落ちて必要なくなったからかな


まあ名残のようにふと思ったので云々




1.「物思い」を想うこと。


「もの思い」の「もの」には、昔は「物事、理、目に見えないもの、おばけ、妖怪、憑き物」なんて意味もふくんでいたらしい

確かに、「目の前にない遠くのことを想う」という行為は、

いろんな真偽を問わず、可能も不可能も自分次第、現実や周囲をねじ曲げてよくない考えに憑かれる原因になることもあれば、今まで存在していなかった革新的な発明の元になったりする。

存在しない状態を表す「0」や、

重い凶器を持ち運ばなくても殺傷力の高い火薬や、

存在していたのに見えないから気付かなかった電気や電磁波や、

誰かを呪う妄執もおばけも

目に見えない遠くを想った無数の中から生まれた


日本語の「もの」は、そういう可能性を込めている。

英語のthingは、何から生まれてどんな意味を含むのか、

アイヌ語や、熱帯や極北や、ザトウクジラの歌は何を彼らの「もの」と見做したんだろうか、

水の中に、空中に吐き出された呼気になにが、

どんな栄養やミネラルや、気持ちや伝えたい意味がふくまれていて、それぞれの何が空気を震わせて伝わっていって、形になったんだろう



2.食べる


最近、なるべくがんばって食事に時間と心をかけるようにしている。

いかにおいしく、美しく、楽しく、味わって。おかげで休憩1時間の内30分はただ食べているだけである。他のことはできない。ちょっとストレッチ。

何かしながら食べると、それは気が削がれるからもう失敗なのだ。

一見無駄かもしれないが、ひどく効果を実感している。後であまり飢えてこない。

満ち足りなければ、餓える。きもちが切迫して、なにかを求める。

餓えると、気が散漫になる、疲れる、何か気を紛らわすものが欲しくなる、過去はそういう現象だったのだ。それが確実に減った。まだ完璧にものにはしてないけれど。


それができるようになって、ひとつのことにきちんと向き合って集中するというのは、快楽で、満足で、幸福である、と感じるようになった。まだ少しずつだけど。

自分はひとつの何かを選んだのだ。

一瞬を真剣に生きて、張り詰めた勝負をするように、他の漫然とやりたいなにかかにかを捨てて、狂ってるくらいに何かひとつを選び、そこから得られる歓びを最大限捕まえてやろうという、勝負。

勝負をしているのだ。

ひとつ食べるごとに。

それ自体が、歓びで、体を満たす。

目の前に様々な過程を経て「己を食べろ」と主張する元・命。

理不尽だろうと頭がおかしかろうと勿体なかろうと、その一瞬を最大限に吸い、吐き、生きられるように戦う。戦うのだ、濃厚に熱く血を滾らせるのだ。一瞬を、この時を、刻を水で薄めてなるものか。

最近すこし感じ始めた。漫然とした怠惰に、時の流れに負けたくない。あるもの、与えられたものを、最大限に味わい尽くした方が勝ちだ。

アナログの一本の線もきっと同じ。濃縮した命を込めろ、魂を削れ、削った分を奪え、補給しろ、そしてまた出せ、それが自分を満たしてくれる。



こう、寝るの遅くなる奴のセリフじゃないけどな!!!!!

早く寝たい…スマホ捨てろマジ

あと早く起きないと遅刻するから…改善したい…


アカギ風とか言っちゃだめな。

今読んだの10巻までだけど、鷲巣様編に入ってから視点が鷲巣様からなので、アカギの打ち方は6巻までとなんら変わってねーのに、それを知らないもう1人の鬼が主役で、これまでの1〜6巻で明らかにされていったアカギのすごさを追体験するみたいな感じになってる鷲巣戦初期編の感想。これからどう、誰視点なんかしら。アカギサイド解説はいるのかな〜

アカギが「確率で水のように薄めない」ならカイジは「57億の孤独、ただ交信するのみ」。なんかお気にのマイフレーズある(笑)大体初期っつうね




3.「世界の中心」


基本的に、世界の中心は自分だと、思っている人間である。


たとえば一人の人間にとって世界の中心は、法律とかルールとか、地殻とかマグマとか、太陽とか、重点とか、いろんな見方がある。

「あなたは世界の中心だね」と、たまに言ったことがあるけれど、まず理解されない。

理解されないことはわかっているから、大体、ついそう言ってしまう相手は気を許した相手にポンと出る、という感じ。

で、自分が気を許す相手は大概自己肯定感が低かったから、「?」からの「自分は所詮世界の底辺だよ」なんて言われてきた。けっこうね。

(と言ったって、最後に世界の中心だねって言ったのは1年以上前だから、今ならもっと色んな反応見られるかも。自信のある人なら違う意味で当然、とかかえしてくるのかな)


そうじゃないんだ、あなたの言う世界の中心は、人間の社会を動かすいわばエライ人たちで、自分は偉くないと言ってるんだろう。それはわかるよ。

けれど、そういう意味じゃないんだ。

その底辺にいるあなたの半径何kmかを切り取って?その中で生きてるのがあなただろう。

(ああ、あっちが上だ、あれが偉い、ここが下だ、ここはダメだ、だから自分はダメだ)

なんて思う、そういう形の世界を作って、そういう世界を見つめている、その世界の中心はあなただ。

その世界はあなた(もしくは誰か下層がいると都合のいい上位者が無責任に煽って)が作り上げて、自分に言い聞かせて見せているものだ。地動説を自分で確かめたのか?


例えばミクロだったら

魚とかサシンとかザリガニとか植物とか、たまに新天地を求めて水流や風に乗って移動するけれど、個体は一筋の沢で一生を終えたりする。

一筋の沢が、どんなにたくさんの生き物がいて、何が食べられて、何が食べるのか、その出会いの数やルールは、たぶんトータルすれば人間とそんなに変わらない。人間とはスケール、世界が違いすぎて比べられないだけで。


マクロだったら

量子が生まれてぶつかって融合して電気になったり、水素になったり、鉄になったり、恒星になったり、最期に爆発したり冷えて固まったり、そんな一生もある。人間は塵ほど小さいけれど、星は星で星雲だとか後年だとか暗黒物質ブラックホール重力スペクトル、色んな理、ルールの世界で生きている。


人間だって、そうでないものだって同じだ。スケールが違うだけ、人間の世界、理の外にあるだけで、それぞれの個体が一生に出会う感動の量は、トータルすれば同じくらいだと勝手におもっている。

それぞれに、それぞれの一生がある。比較したり、はみ出たり、食って食われて戦って。

地球の周りを星が回る天動説は、地動説にとって食われてもう笑われるけれど、そのことを本当に知っている、知るために全力を傾けた者はそうそういない。ただ「学校で教わったことを正しい」と、優劣の道具、ものさしにしているだけで、それは思考停止だと思う。

そのことについてもう考えない。

考えないのは自分。天動説でも地動説でも、第三の説でも本当はどうでもいい。

「自分はダメ」と唱えて作る世界から目を外して、横か外に抜け道を見つけて、ちょっと出てみたら意外と「上」も上一辺倒じゃなかったり、斜めやイレギュラーもあったり、同じような人間だったり、もちろん違う人間だったり、するもんだ。

どんなものでも、社会的、地位的、経済的、物理的にどこにいたって、何が見えてどう生きたって、あなたの世界はあなたの生きて動く周囲にしかない。

それが肉体をもった一個人の限界だ。

だからあなたは世界の中心だ。

天動説。


それを感じないで、ただ安穏と思考停止をして私は僕は底辺だから〜、と、横道も脇道も色んな道を見ようとしないのは、

(このひとは、このひとの知る、育ち、ふれてきた世界の外に出る気がないのだ)

(このひとは、自分の作った世界の中心で、自分は底辺だから何をしても変わらない、何をしても無駄、何をしても…と諦め続ける努力ばかりして、底辺に居続けようとするのだ、ただ慣れ親しんでいるからという理由で、慣れ親しんだところに居続ける努力をしているのだ)

なんて思う。

もう努力しまくって、これまでの自分が死ぬほど、それこそ天動説から地動説に世界が変わるほど、足掻いて足掻いて、でもダメだったから、変化を信じる余裕も希望も周囲が取り上げてしまって、それに自分は負けて諦めてしまったのかもしれないから、人の決意に何も口出しはしない。

きちんと戦うということは、教育を受けるか、強さを持つか学ぶかして、きちんとした手順を踏まなくては、転んで失敗して痛いばかりだから。

なにがそのひとにとって幸せで不幸せかも知らないから、変化を嫌がる人は多いし、ひとを変えるためには最初から最後まで見守らなくてはならないし、そのためにかかる労力は私には重いから、それ以上言わない。責任もてないことはしたくない弱さ。向き合わなきゃいけないかなあ、最近ちゃんと目線を上げて目を合わせることも、距離感の適切さも学ばなくちゃとおもうし。


ただ、私と近いと思った人にそう否定されたとき、1度は近かったのにもう違う道を歩んでる生き物なのかなあ、と繰り返しの孤独を感じていた。あのちくりとした痛み。

誰かみやこに共感してくれないかなあ