軽く沖縄慰霊の日について思うこと
6月23日ですね!
沖縄慰霊の日ですね!
昔いけ好かないおじさんが熱く熱くこの日を推してまして、多少なりとも私の中でもひどい大事な日だとは覚えられています。
その人はもう連絡先も登録してないしどこで何してるかもしらないけれど、あれだけはよかった。
でも映像や資料をちゃんと見たことないので、ふと思い立って今日ちょいと鉄の雨や鉄の暴風の図を見ました。
ぐぐれば出るいい時代です。
でも、見ようとしなければこんな日本で一番北の僻地では見る機会なくて、教育の機会とはなんぞ〜とおもったり。
で、見てびびったわ………
なんぞあの、いや、あの写真一枚でもまじ鉄が雨だし爆発しすぎだろ映画も最近ご無沙汰の身としてはエッてなった
やだーーー死んじゃうーーーこえーーー!!!!
戦争とか政治に関する話はあまり好かれないけれど、
それを越えてあの場所には生死の限界、不条理、恨みや感動が集まり、魂が言葉や画から溢れている
伝えたい、伝えたいものがある
なにを見て、何が空を覆い、空気に溢れ、焦げ、ひりつき、どうやって死と触れ、生を感じたか、
ただの剥き出しの生死の叫びだけがある
具体的な言葉、曖昧な抽象的ななにかイメージじゃない、具体的に死や恐怖が
どんな形でどう現れ忍び寄り囁き体を操り何が見え聴こえ嗅いで、それにふれたとき何がどんな風に弾けたのか
どろりとジャムのように、何千もの針が弾けるように、真綿に首を絞められるように、麻に押し潰されるように、皮膚を1ミリずつ削られていくように、糸をいくつ切っても逃れられないのか、餓えがどのように締め付け、泥のような万の蛆に足をつっこんだように、誰にどんな形の死と絶望と苦しみが襲い、生きられる歓びがどんな形で輝いたのか
そしてそれはなんのために何が原因で引き起こされたのか
こういう、私のような極度の原作厨は
誰かの極限の感情を、伝えたい助かりたい繋げたいというきもちを食って生きてるような空っぽの遊び人は、
こういうところに最終的に行かねばならぬ、というそんな予感を感じました
受け取るために伝えるために、自分みたいな奴がいるんじゃないのか?
最近はちはやふるのおかげで、「日本」の衣食住、言葉や感性を学ぶのが楽しくて楽しくて、今はまだそういう裏打ちを広く深く得る時期で、そうしたらきっと北海道でも沖縄でも深く深くつながるための道がつながるはず
歌合わせってのも表現の追求勝負でなぁほんと
深さと正確さが要る